神様との休息
今年の五月のこと。私は、『希望が咲く』を出版した。そして、その後の日曜日、私は、教会の牧師にその本を手渡しに行った。そして、そのまま、思い切って、何か預言をして欲しいとお願いした。
そうして与えられた預言というのが、「休みなさい」という言葉だった。私のアイデンティティーはキリストであり、しっかりその土台を作ることが必要で、土台がしっかりしていれば、たとえ批判を受けても、気にせず前に進むことができるのだという。
たしかに、その時の私は、ずっと忙しくしていた。新しい原稿を書き、アイデアを練り、とにかくアウトプットばかりしていたのだ。休むことの重要性をなんとなく感じていながらも、赤信号を無視し続けていたのだ。
私は、その後、与えられた預言について祈りはじめた。休むべきだと言うことはわかっていたが、どうやって休んだら良いのか、わからなかったのだ。もし、休むことが眠ることだとしたら、話は簡単だ。けれど、預言の中の「休む」は、そうではなくて、キリストの中の休息のこと。祈ったり、試行錯誤していくうちに与えられたのは、「イエス様の声に耳を傾けて、従う」ということだった。
私たちが神様のために何かをしたいと思うことはよくある。けれど、神様は私たちにもっと素晴らしい計画があって、私たちの思いは、時に、神様のご計画の実現を妨げてしまう。例えば、私が神様について書き、良いことをしているつもりになっていたとしても、私がイエス様にとどまり、栄養をもらっていなければ、実を結ぶことはできないのだ。そうではなくて、私は、神様が、直接読者の方に語りかけるような文章を書くべきだ。
また、かつての私は、教会生活の不満を口にしてしまうことがあった。たとえ、牧師やリーダーたちがどんなに神様の言葉を代弁したとしても、私たち受ける側が聞く耳を持っていなかったら、私たちの成長は止まってしまう。神様の言葉を聞くには、やはり受け取る側にも心の準備が必要だし、受け身な姿勢でもいけないなと思う。私たちには、喜んで神様の前に進み出て、時には聞きたくないようなことも素直に受け止め、実行していくことが必要だと思う。どんなことに対しても、神様にはご計画があるのだ。
もし、読者の方の中にも、忙しい日々を送っている人がいたら、一度全てを手放して、祈ってみて欲しいなと思う。イエス様が、あなたの人生に大きな奇跡を起こし、安らぎや平安を与えてくださると、信じている。
