葛藤の中の光
本を書いていく中で、私は自分に正直でいたいなと思う。クリスチャン生活の「美しさ」や「楽しさ」だけでなくて、困難や葛藤も、隠さずに書くことが私の目標であり、私に与えられた役割だと思う。それはやはり、葛藤の中にも励ましや希望があることを信じているから。
文章を書くのはとても楽しい。子供の頃、小説家になりたいと思っていた私にとって、こうして本を書くことは、まさに夢の中を生きているようなものだ。聖句を選んで祈りつつ内容を考え、実際に文章を書くことは、まさにcalling(神様からの召し)だなと思う。
でも、そういった神様から与えられた役割であっても、敵からの攻撃がある。文章を書くことは、孤独な作業だし、ただひたすら自分と向き合わなければならないので、弱くなりがちで、案外容易に敵の嘘を信じてしまうのだ。
「私が書いた本を、誰が読むのだろう。」「こんな下手な文章なんて、誰だって書ける。」「私は必要ない存在だ。」「明日にはアイデアがなくなって、書けなくなる。」「製本に、誤字脱字がたくさんある。」「全然プロフェッショナルじゃない。」敵の言葉をあげたらきりがないくらい、たくさんネガティブなことを考え、真に受け、真剣に悩んでしまうのだ。
敵の攻撃はそれだけでは終わらない。教会の家族、近しい友人との間に働いて、あたかも「これが神様の考えだ」とでも言わんばかりに私や周囲の人たちを傷つけてくる。誰かが教会で傷ついてしまうことは、こうしてサタンの働きによって起こるのではないか、と思う。
他にも、私は自分に自信がないところがある。「自分はかわいくない。」「バイリンガルの教会に通っているけれど、私の英語は間違えてばかりで完璧じゃない。」「私が教会にいてもいなくても同じだ。」などなど、みんながどんなに否定しても、今までの私は、かたくなに、自分には価値がないのだと信じ込んでしまう。
そして、私の過去はぐちゃぐちゃだ。不登校になって精神的な病気になったり、家出をしたり、突然結婚した挙句に離婚したり、十代二十代にいわゆる「青春時代」があった覚えがない。それは、もう終わったことで、いまはこんなにたくさんの素晴らしい仲間がいて祝福されているのに、仲間であるはずの友人と自分を比較して落ち込んでしまう。誰しも、何かで葛藤することだってあるのに、私は自分が「足りない存在」だと思ってしまうのだ。
冷静になってみれば、癒しや赦しなど、何かの過程にいる時は、苦しさを感じやすい。まだ達成していない、満たされていないからこそ葛藤する。でも、成し遂げられたきれいな証しと同じくらい、いま葛藤している、嘘に負けてしまうけれど神様と生きている、という証しにだって、励まされるはずだ。それに、そういう証しこそ、実際求められている気がする。
よく思うのは、私がもし病気にならず、失敗のない人生を歩んでいたら、神様を必要としなかった、ということ。私に不完全な面があったからこそ、神様という完全な存在に引き寄せられたのだと思うし、神様ご自身が、引き寄せて下さったのだと思う。そもそも、神様の目には、私たちは全員完璧で美しいのだから。
いまだに、私は敵の攻撃を上手くかわすことができずにつぶれてしまうことだってあるし、残念ながら、こうすれば大丈夫、という術を見いだせているわけではない。だけれど、葛藤の中にも光がある。そのことだけは、声を大にして言いたいし、あなたにも、その葛藤を隠さず、正直であってほしいなと思う。
