できることをする
2025年の秋のある日曜日のこと。私は、教会で、寛大になることについて、メッセージを聴いていた。話の中心は、お金の面での「気前の良さ」についてだったが、私はその話に強く惹き込まれたのをよく覚えている。
お金の面で寛大であるにはどうしたらいいか考え、私は資格の勉強を始めた。お金に強くなって、さらに今より収入が増えたら、寛大になれると思ったのだ。
そうして約半年間、自分の病気の波と戦いながら、そしてその波のせいで毎日は時間が取れないことを割り切りながら、懸命に勉強し、資格試験に合格した。合格した時、神様が私の願いに励ましと後押しをしてくださったように感じ、私はさらに努力したくなった。
その体験を通し、人生の回復には、神様の奇跡に加え、ある程度の努力が必要だということに気がついた。いままでの私は、体調のために無理をしないと決めていたが、その結果、期待しない、頑張らない、怠け者の自分が生まれてしまっていた。だけれど今回、ある程度苦しくても、状況を変えるために行動することも、大事なのだと学んだ。
私は、寛大さについて考える時、そういった、人生を回復するためにする努力が思い浮かぶ。寛大になるとは、与えるとは、誰かの負担を共に持つことだと思う。それは、困っている人の荷物をかわりに持ってあげるようなことで、そういう人が目の前にいる時に、「あなたの代わりに私が頑張るから、あとは任せて。」と言って前を向くことな気がする。
それは、お金であっても、行為であっても、寛大さとは、自分の得意なことや強みを誰かのために使うことだと思う。そして、寛大であるには、ある程度の心のゆとりと、優しさや勇気が必要だ。
私はこれからも、知識を深めるために学び、あるいはこうやって本を書いたりして、日々誰かのために自分ができることを頑張るのだと思う。完璧な人になんか絶対なれないけど、それでも、自分を磨き続けていたいなと思う。私は、誰かが苦しんでいる時、その人の負担を代わりに担い、その人のペースに合わせて歩めるような、そんなクリスチャンになりたい。
