リーダーとは
あなたがクリスチャンでも、そうでなくても、誰かを「導く」時、大きな責任が伴う。その人の人生が上手くいくようにアドバイスしたり、励ましたり、あるいは、そのひとの前を歩いて引っ張っていくわけだけれど、誤って、誰かの人生をコントロールしてしまってはいけない。
特にクリスチャンが教会やグループのリーダーになる時、一般的に、信仰の模範でなければならないといったプレッシャーを背負う。では、「正しい信仰」は、本当に存在するのだろうか。
たとえば、私たちが日曜日に耳にするメッセージといえば、「勝利したクリスチャン生活」についてのものが多い。もちろん、そういったメッセージは、前向きになれるし、とても励まされるのだけれど、反対に、何もかも上手くいかないようなとき、メッセージと自分の置かれた状況がかけ離れすぎてしまっていて、かえって傷つくことだってある。こう書くのには、教会を批判する意図はなくて、正しくできずに苦しんでしまうのを避けるためなのだけれど、もし誰かが理想と現実の矛盾を感じてしまっては、やっぱり苦しいなと思う。
実際、リーダーとして誰かを「導く」とは、「正しさを教える」ことではなく、「寄り添い共に歩く」ことだと思う。もしすべての悩みに白黒はっきりした答えがあれば、誰も悩みはしないだろう。神様の意図が全て明かされていないからこそ、神様をもっと分かりたい、神様に近づきたいと願う。そして、リーダーシップとは、その一人一人の葛藤に寄り添い、祈り、時に優しく背中を押すことだと思う。
かといって私は、リーダー気質ではない。専ら書くことだけが得意で、人前で話すのは苦手だ。それに、私は牧師でも、聖書の先生でもない。私の書く文章が、神学的にそれていることだってあるかもしれない。それでも、せめて誰かに寄り添っていたいと思うし、神様にがっかりしている人の傷が、少しでも癒されたらいいなと願いながら文章を書く。リーダーの在り方なんて人それぞれかもしれないが、少なくとも、私はそう思う。
